今更のウマ娘元ネタ解説① トウカイテイオー

どうもこんにちは。

今回からウマ娘の元ネタとなったウマを解説していきたいと思います。Wikipediaなどの情報が多くなりますがご了承ください。また、競走馬の年齢は、現在の表記で統一します(2000年までは、競走馬の年齢は数え年を使用していたためです。そのため、例えば今の表記の3歳は、当時の表記の4歳となります。)

1回目の今回は、トウカイテイオーちゃんです。

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(スクショガバガバなのは許して)

 1.伝説の序章

トウカイテイオーは、1988年4月30日に産まれました。父は、ウマ娘でいうトレセン学園生徒会長のシンボリルドルフトウカイテイオーは、そのシンボリルドルフの子たちの第1世代でした。

産まれた競走馬は、2歳(遅い馬だと3歳)でデビューを迎えます。産まれてしばらくは牧場で過ごし、その後はトレーニングセンター(トレセン)でデビューに向けた調教をすることになります。

トウカイテイオーは、トレセンに入った当初、トウカイテイオーの走り方ではタイムが出にくいとされた調教で好タイムをマークし、関係者に期待を抱かせたといいます。

そして、2歳(1990年)の12月、中京競馬場(愛知県)でデビューを迎えます。デビュー馬や直近デビュー馬(今はデビュー馬のみ出走可)で構成されるこの「新馬戦」を1番人気に応え4馬身差で圧勝。続くシクラメンステークスは3番人気ながら勝利、以降1991年に入り若駒ステークス若葉ステークスを連勝。デビュー4連勝でクラシック1冠目の皐月賞(GⅠ)に挑みます。

 

2.クラシックへの挑戦

1991年。皐月賞(中山・芝2000m)、日本ダービー(東京・芝2400m)、菊花賞(京都・芝3000m)と続く三冠街道初戦(すべてGⅠ)。一冠目の皐月賞では1番人気に推されます。この日は、2歳GⅠチャンピオンで、トライアルレースの弥生賞(GⅡ)を制覇したイブキマイカグラ、3歳限定レースを連勝中のシンホリスキーなどが参戦し、豪華な顔ぶれとなりました(例年三冠レースは実績馬が集います)。

ここでトウカイテイオーは、イブキマイカグラとともに単枠指定と言うものを受けます。単枠指定とは、8つあるレースの枠を1頭で1つ使うことです。通常レースでは1つの枠に1頭〜3頭の馬が入ります。当時の馬券は単勝(1着馬を当てる)、複勝(買った馬が1〜3着に入ればあたり)、枠連(1着―2着の馬の枠番号を当てる)しかなかったので、比較的人気がなかった馬が勝っても、同じ枠に人気馬がいると枠連の払い戻しが下がってしまうことがあるので、それを防ぐための措置です。(現在は馬連が導入され、馬番号での投票が主流になったため単枠指定はありません)

レースは大外18番枠からスタート。最後の直線で1馬身差をつけ勝利し、GⅠタイトルを手にしました。しかし、人々は「皐月賞だけでは終わらない。親子三冠は間違い無し」とこの時点ですでに確信しました。

続いては、すべてのホースマンの夢、日本ダービー東京優駿)に出走。再び単枠指定を受け大外20番枠(ちなみに現在最大でも出走頭数は18頭。これより前は24頭なんてのもあったらしいです)に入りました。ダービーが行われる東京2400mは、外枠の馬は不利と言われます。

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↑20番枠はこの画像の一番左。

レースはらくらく3馬身の快勝。「これはまさか親子無敗三冠達成か…?」と関係者はわきました。

しかし、トウカイテイオーをここで悲劇が襲います。

 

骨折が判明したのです。

 

ダービー3日後にそれは発表されました。これにより菊花賞は断念。ちなみにその菊花賞は、ダービー2着とトウカイテイオーの後塵を拝したレオダーバンが優勝しました。

 

3.復活と挫折

骨折が癒え、復帰したのは翌年(1992年)の4月の産経大阪杯(当時GⅡ、阪神・芝2000m)。ダービーが5月であったことを考えると、実に1年弱ぶりのレースでした。しかし鞍上の岡部幸雄騎手は直線持ったまま(手綱を動かさず)圧勝。まさに乗っているだけでした。

最強馬の復活を予感させる走り。骨折で競走能力を大幅に失ってしまう馬も多い中、そんなことは関係ないと言わんばかりの走りでした。

続いては、古馬最強決定戦・天皇賞(春)(GⅠ、京都・芝3200m)に出走。この競走で、トウカイテイオーの前に立ちふさがったのは、春の天皇賞ディフェンディングチャンピオンメジロマックイーンウマ娘でもよく出てきましたね)。当時古馬界最強を誇り、特に長距離では右に出る馬はいませんでした。最強馬vs最強馬。この対決が注目を浴び、2頭のオッズは他馬を大きく離しました(テイオー1.5倍、マックイーン2.2倍。3番人気のイブキマイカグラは18.2倍)。

レースはメジロマックイーンの圧勝、そして2連覇に終わりました。一方のトウカイテイオーはレース開始直後に骨折し、競走生活初敗北となる5着に沈みました。

その後休養をはさみ9月にトレセンでの調教を再開。10月の天皇賞(秋)(GⅠ、東京・芝2000m)で復帰しました。しかし調整の失敗と、特殊な展開(超ハイペース)が災いし7着に敗れました。

 

4.国際GⅠ化を飾る

陣営が次に選択したのは、世界から強豪馬を募る国際レース・ジャパンカップ(GⅠ、東京・芝2400m)。ダービーを勝ったときと同じ舞台です。

この年から、ジャパンカップは国際的な「GⅠ」の格付けを得ました。

それまで日本の多くのレースは国際的にGⅠと認められているレースではありませんでした。つまり従来の日本のグレード制は国内で決められただけのグレードだったわけです。

しかしジャパンカップは1992年から国際的にGⅠと認められました(これについてはまた機会があれば書きたいです)。

この年は、競馬の本場・イギリスのダービーを制したクエストフォーヘイム・ドクターデヴィアスを始め、2冠牝馬・ユーザーフレンドリー(英)、オーストラリア最高格G1・メルボルンカップ勝ちなどの豪州代表・レッツイロープ、重賞で実績をもつディアドクター(仏)など強豪外国馬が参戦し、ハイレベルな戦いが期待されました。

トウカイテイオーは道中4・5番手を進むと、最後はナチュラリズム(豪ダービー馬)をクビ差抑え優勝。久々のGⅠ制覇となりました。

 

5.明暗有馬記念

ジャパンカップを制覇したトウカイテイオーは、年末のグランプリ・有馬記念に出走することになりました。有馬記念は、創設(1956年)当初は類を見ない、ファン投票で出走馬を選出するレースです。父シンボリルドルフが2連覇したこの舞台で、トウカイテイオーは17万票近くを集め投票数1位で出走。しかしレースは終始後方を走り、生涯最低かつ唯一の2桁着順となる11着に沈みました。

1993年に入り、筋肉を痛めたことが発覚し休養。宝塚記念で復帰の予定でしたが3度めの骨折により回避。結局復帰は年末の有馬記念までずれ込みました。

実に約1年ぶりのレース。さらに菊花賞馬で一度も3着以下になったことのない3歳馬・ビワハヤヒデ、当年ダービー馬・ウイニングチケット、さらに他のGⅠ勝利勢も加わり、混戦状態となりました。そのせいか生涯最低の4番人気でレースを迎えることになりました。

レースは、後方待機策をとりました。最後の直線でビワハヤヒデが抜け出したところに襲いかかり、実に中363日でのGⅠ勝利。これはJRA記録としていまだ破られていません。

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↑手前がトウカイテイオー、奥がビワハヤヒデ

翌年(1994年)は筋肉痛を発症し休養。さらに4度目の骨折を発症し、トウカイテイオーの競走人生は幕を閉じました。

 

6.あとがき

通算成績は12戦9勝。その後GⅠ馬を3頭輩出し、種牡馬としてもまずまずの成績を挙げました。実はシンボリルドルフから受け継がれたトウカイテイオーの血は今では珍しいバイアリータークという系統で、貴重なものでした(これもあとでお話できればと思います)。ただ後継馬は、ヤマニンシュクル(2歳牝馬チャンピオン)が繁殖牝馬入りしているものの、トウカイテイオー系は非常に細々とした系統となっています。

トウカイテイオー自身も2013年に逝去し、繁殖業界ではトウカイテイオーの文字を見ることは少なくなっています。しかし、劇的な復活を遂げた有馬記念は、いつまでも競馬ファンの心に刻まれ続けること間違いありません。

 

最後までお読み頂き、ありがとうございました。