岩手競馬の黄金時代を支えた馬たち②
こんにちは。今回は前回に引き続いて、岩手競馬の馬たちの紹介をやっていきたいと思います。今回はトウケイニセイです。
1.いきなりの挫折
1987年。トウケイホープとエースツバキという2頭の馬の間に、牡馬が生まれました。この馬こそ、後に岩手競馬史に燦然と輝く大記録を打ち立てる、トウケイニセイです。
父・トウケイホープは、大井で東京大賞典、関東盃(現・サンタアニタトロフィー)、報知オールスターカップなどを制覇し、岩手では敵なしの強さを誇った馬。父の父の父(つまり曽祖父)はナスルーラ(現役時代に現在G1に格付けされているチャンピオンステークスを制覇し、種牡馬として欧州・米国で数々の活躍馬を送り出した)。一方エースツバキはJRAで1勝の経験あり。後に地方競馬で活躍した馬をトウケイニセイを含む3頭送り出しました。
トウケイニセイは89年9月に一般戦(グループⅠ〜Ⅴからなる)・グループⅤでデビュー、見事新馬勝ち。しかし直後、競走馬にとって致命的な病・屈腱炎を発症します。屈腱炎は、文字通り「屈腱」というところが腫れて炎症を起こす病気。発症すると短くても数ヶ月治癒にかかる上、よく再発し、さらに競走能力が元通りになる例は多いわけではありません。
しかし、トウケイニセイは1年半の懸命な治療の末病をはねのけ復活しました。以降は再発の可能性があることから、脚と相談しながらの競馬となります。
2.連勝街道の始まり
復帰戦は91年の4月のグループⅤ戦。ここを3馬身差で勝つと、グループⅤ戦を6連勝。徐々に格を上げ、計18連勝。気づけば年も変わり、グループⅠまで昇格していました。しかし92年、19戦目のグループⅠ戦で、ハルサンヒコーに敗れて2着。(初敗北)これで勢いが止まるかと思いきや止まらないのが覇王。20戦目から再び勝ちだし、グループⅠ戦を4連勝したあとみちのく大賞典(93年)で重賞初挑戦。ここでスイフトセイダイ(7歳)、モリユウプリンス(4歳。このレースの前SGを2頭まとめて下した)をレコードタイム(新記録のタイム)で撃破。6歳にしての重賞初挑戦初勝利。さらに勢いは止まらず、続いて東北サラブレッド大賞典・北上川大賞典・南部杯・桐花賞を連勝、すべて連覇でした。
さらに年が明け94年、赤松杯(連覇)・シアンモア記念(連覇)を制覇。11連勝となりました。この内南部杯以外はモリユウプリンスを2着に下しました。(南部杯ではモリユウは3着)
しかし続くみちのく大賞典ではモリユウプリンスに最後の最後で競り負け2着。ゴールの瞬間、モリユウプリンスの鞍上・小林俊彦騎手は大きくガッツポーズ。「ニセイは馬体を併せられると勝てないのでは?」とも言われたそうです。
ただその後は連勝街道。JRAとの交流レース・フレンドリーカップ(94年。岩手のオープン馬vsJRAの900万下←下から3番目のクラス)や南部杯(レコード)を含み8連勝(すべて重賞かつ連覇達成。とくに北上川大賞典は3連覇)。みちのく大賞典(95年)ではモリユウプリンスに敗れたものの、続くフレンドリーカップ(95年。この歳はJRAの1500万下との対決)はモリユウを3着に下し連覇。続いては3連覇を懸け南部杯に出走。この年から、南部杯は大きな変化を遂げます。
3.新生南部杯
当時、地方競馬と中央競馬の交流レースはあまりありませんでした(オールカマーなど)。しかし南部杯は先駆けて中央の馬も出走できるレースに変わりました(それまでは北関東以北の馬たちの交流レース)。95年、トウケイニセイは8歳。すでに競走馬の旬は過ぎたとされる年齢でしたが、それでも2番人気。1番人気はライブリマウント(JRA)。当時6連勝中で、フェブラリーステークス(当時GⅡ)や平安ステークス(GⅢ)、帝王賞、ブリーダーズゴールドカップなど重賞を総なめにしていました。岩手の雄か、それとも中央の雄か。当時南部杯が行われていた水沢競馬場は沸きました。しかしここでニセイはライブリマウントの前にまさかの3着完敗(生涯唯一の3着)。水沢競馬場はため息に包まれました。(2着は大井のヨシノキング)
ただ引退レースの桐花賞は優勝(3連覇)。8歳で引退という、息の長い活躍で競走生活を終えました。通算43戦39勝、うち2回はモリユウプリンスに負けました(それ以上に下してはいますが)
ちなみに、ライブリマウントはその後白星を挙げられず、当時世界最高賞金額だった第1回ドバイワールドカップ(G1、ナドアルシバ競馬場・ダ2000m)にも遠征しましたが完敗。トウケイニセイに勝ったことで燃え尽きてしまったのかもしれませんね。
通算:43戦39勝
主な勝鞍:
93年 みちのく大賞典、東北サラブレッド大賞典、北上川大賞典、南部杯、桐花賞
94年 赤松杯、シアンモア記念、東北サラブレッド大賞典、南部杯、北上川大賞典、フレンドリーカップ、桐花賞
95年 赤松杯、シアンモア記念、東北サラブレッド大賞典、フレンドリーカップ、桐花賞
お読み頂きありがとうございます。次回は「メイセイオペラ」「トーホウエンペラー」を特集します。
<参考>
①http://www.jbis.or.jp/horse/0000200935/record/
②http://www.jbis.or.jp/horse/0000249565/record/
③https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E3%82%B1%E3%82%A4%E3%83%8B%E3%82%BB%E3%82%A4
④https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E3%82%B1%E3%82%A4%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%97
⑤https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B9%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%A9
岩手競馬の黄金時代を支えた馬たち①
こんにちは。牝馬二冠を達成したアーモンドアイは秋華賞(三冠最終戦)に直行すると聞きました。力通りになれば三冠は必達だと思いますが、ステップレースを使わないのは多少不安ですね。
さて、今回は岩手競馬の黄金期を支えた馬たちを紹介していきたいと思います。
1.岩手競馬の概要
岩手競馬は、岩手県競馬組合により運営されている、地方競馬(JRAの運営ではない、地方公共団体により運営される競馬)の一つです。盛岡競馬場と水沢競馬場で競馬を行い、2017年の売上総額は285億6900万。盛岡ではJpnⅠ(GⅠとほぼ同義語)競走のマイルチャンピオンシップ南部杯が施行されています。
2016年に重賞競走(毎年決まった時期に行われる格の高いレース)に独自のグレード(M1〜M3)を導入しています(JRAのGⅠなどとの互換性はない)。
(出典:http://www.iwatekeiba.or.jp/guide/moriokakeiba/oro_01)
1996年に完成した盛岡競馬場は、1周1600mのダートコースと、1周1400mの芝コース(ターフコース)を持ちます。地方競馬では唯一芝コースを持つ競馬場ですが(地方は基本ダート)、芝レースはあまりありません。
盛岡の特徴は、スタートから800m近く直線を走るダート1600mコースと、最大高低差4.6mにもなる坂でしょう。とくにダート1600mコースは南部杯にも使われており、有名です。
盛岡の市街地からはやや離れた森のなかにあり、とてものどかな雰囲気が漂います。
<主な重賞競走>マイルチャンピオンシップ南部杯(JpnⅠ)、マーキュリーカップ(JpnⅢ)、クラスターカップ(JpnⅢ)、不来方賞(M1、3歳)、シアンモア記念(M1)
(出典:http://www.iwatekeiba.or.jp/guide/mizusawakeiba/mizu_01)
水沢競馬場は1周1200mのコースを有します。北上川のそばにあり、かつては多くの重賞競走が行われてきました(ダービーグランプリなど)。これは現在の盛岡競馬場ができる前の旧盛岡競馬場はコースが狭い上高低差が8.8mあり大レースが行えなかったからです(みちのく大賞典などは旧盛岡でも行われてきた)。
現在の盛岡競馬場ができてからは、順次レースが盛岡で開催されるようになりましたが、それでも歴史のある重賞の中には水沢で開催されるものもあります。
<主な重賞競走>岩手ダービーダイヤモンドカップ(M1、3歳)、ダービーグランプリ(M1、3歳)、留守杯日高賞(M1、牝馬)、一條記念みちのく大賞典(M1・岩手競馬春の総決算レース)、北上川大賞典(M2)、桐花賞(M1・岩手競馬の有馬記念、ファン投票で出走馬を選定)
2.岩手競馬の黄金期① 〜SG世代〜
※長文になります。ご注意ください。(画像は調べてください)
1986年、この世に生を受けた2頭の競走馬。後にこの2頭は、良きライバルとなって死闘を繰り広げることとなります。
2頭の馬の名は、スイフトセイダイとグレートホープ。2頭の初顔合わせは、89年5月のダイヤモンドカップ(3歳戦)。ここで勝利をあげたのはスイフトセイダイ。スイフトセイダイ(以下セイダイ)はここまで11戦9勝、グレートホープ(以下ホープ)はデビュー2戦目。セイダイはこの勝利で重賞3勝目を挙げた一方、グレートホープは屈辱の殿負け(ビリ)。巻き返しを図るホープでしたが、続く不来方賞(3歳戦)では1着セイダイの前に2着。ダービーグランプリでもセイダイの前に3着。
続く岩手の年末の総決算・桐花賞ではついに優勝し重賞初制覇。しかしセイダイは東京大賞典(大井競馬の年末総決算レース)に挑戦していました。結果は、南関東で今なお語り継がれる名牝ロジータの前に4馬身差をつけられ2着に敗れました(余談ですが、ロジータ記念という重賞競走が現在川崎競馬場で行われています)。鞍上の的場文男騎手は「下手に乗った」「あれは勝てたはずと今でも反省してる」と話しています。
年が明け1990年(両馬4歳)。セイダイとホープは赤松杯で対決。セイダイはまたしてもホープ(3着)を破って優勝。その後も桂樹杯、みちのく大賞典、すずらん賞、シアンモア記念とセイダイはホープに先着(ちなみに、すずらん賞・シアンモア記念ではセイダイは2着)。セイダイはその後東北サラブレッド大賞典に優勝し、満を持して再び大井へ乗り込みます。しかし、ダイコウガルダン(当時大井の最強馬)と熱戦を繰り広げたものの2戦していずれもダイコウガルダンに敗れ2着。一方ホープはセイダイ不在の中南部杯・北上川大賞典を優勝。桐花賞では2着でした。
翌年(両馬5歳)、セイダイはみちのく大賞典(ホープと同着)、赤松杯、シアンモア記念(いずれもホープを退ける)を制覇。セイダイは続いて、中山のオールカマー(当時GⅢ)をチョイス。このレースは地方の馬でも出走が可能で、門戸が広く開かれたレースでした。しかし勝ち馬とはタイムが0.5秒差だったものの5着に敗れました。続いては札幌(地方競馬。ホッカイドウ競馬がJRAの競馬場を借用)のブリーダーズゴールドカップを選択。こちらもJRAとの交流レースでした。結果はカミノクレッセ(距離・芝ダート・グレード問わず数々の好走歴を持つ)の前に大差をつけられ2着に完敗。その頃ホープは東北サラブレッド大賞典と北上川大賞典を制覇(南部杯は2着)しました。
年が明け1992年(両馬6歳)、ホープはこの年正月開催だった桐花賞を優勝。そして条件戦をはさみ、みちのく大賞典でセイダイと対決。これを勝ち、ついに因縁の対決で初勝利。シアンモア記念では2着。しかし東北サラブレッド大賞典優勝・南部杯4着をはさみ、北上川大賞典・桐花賞でセイダイを撃破しました。一方セイダイはこの年はホープ不在の赤松杯・桂樹杯とホープ2着のシアンモア記念を優勝。桐花賞では4着(2着は、のちに主役となる3歳馬モリユウプリンス)。
次の年からは、セイダイ・ホープともに年齢を重ねていたこともあり、セイダイは桂樹杯、ホープはオープン戦を勝つにとどまりました。
<両馬通算成績>
スイフトセイダイ:51戦27勝
主な勝鞍:
88年 南部駒賞、東北サラブレッド3歳チャンピオン
89年 やまびこ賞、ダイヤモンドカップ、不来方賞、ダービーグランプリ
90年 赤松杯、桂樹杯、みちのく大賞典、東北サラブレッド大賞典
91年 みちのく大賞典、赤松杯、シアンモア記念
92年 赤松杯、桂樹杯、シアンモア記念
93年 桂樹杯
グレートホープ:54戦24勝
主な勝鞍:
89年 桐花賞
91年 みちのく大賞典、北上川大賞典
92年 桐花賞(91年シーズン)、みちのく大賞典、東北サラブレッド大賞典、北上川大賞典、桐花賞
この2頭の対決はSG対決と呼ばれ、大きな注目を集めました。スイフトセイダイがまた勝つのか、それともグレートホープが雪辱を果たすのか。同期2頭の熱い対決は4シーズンに渡り続き、ファンを魅了しました。
また、スイフトセイダイは東北の意地を大井で見せました。他地区の馬がロジータやダイコウガルダンといった大井の強豪とぶつかったというのは、当時あまりありませんでした。大井のレースに出るには、所属先を離れ大井に転籍しなければならなかったからです。そのような手間を掛け、スイフトセイダイは東北代表として戦ったのです。
長文にお付き合い頂き、ありがとうございました。次回は岩手競馬史に残る1頭が登場します。
<参考>
②https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%97
③http://www.jbis.or.jp/horse/0000188091/
今更のウマ娘元ネタ解説① トウカイテイオー
どうもこんにちは。
今回からウマ娘の元ネタとなったウマを解説していきたいと思います。Wikipediaなどの情報が多くなりますがご了承ください。また、競走馬の年齢は、現在の表記で統一します(2000年までは、競走馬の年齢は数え年を使用していたためです。そのため、例えば今の表記の3歳は、当時の表記の4歳となります。)
1回目の今回は、トウカイテイオーちゃんです。
(スクショガバガバなのは許して)
1.伝説の序章
トウカイテイオーは、1988年4月30日に産まれました。父は、ウマ娘でいうトレセン学園生徒会長のシンボリルドルフ。トウカイテイオーは、そのシンボリルドルフの子たちの第1世代でした。
産まれた競走馬は、2歳(遅い馬だと3歳)でデビューを迎えます。産まれてしばらくは牧場で過ごし、その後はトレーニングセンター(トレセン)でデビューに向けた調教をすることになります。
トウカイテイオーは、トレセンに入った当初、トウカイテイオーの走り方ではタイムが出にくいとされた調教で好タイムをマークし、関係者に期待を抱かせたといいます。
そして、2歳(1990年)の12月、中京競馬場(愛知県)でデビューを迎えます。デビュー馬や直近デビュー馬(今はデビュー馬のみ出走可)で構成されるこの「新馬戦」を1番人気に応え4馬身差で圧勝。続くシクラメンステークスは3番人気ながら勝利、以降1991年に入り若駒ステークス、若葉ステークスを連勝。デビュー4連勝でクラシック1冠目の皐月賞(GⅠ)に挑みます。
2.クラシックへの挑戦
1991年。皐月賞(中山・芝2000m)、日本ダービー(東京・芝2400m)、菊花賞(京都・芝3000m)と続く三冠街道初戦(すべてGⅠ)。一冠目の皐月賞では1番人気に推されます。この日は、2歳GⅠチャンピオンで、トライアルレースの弥生賞(GⅡ)を制覇したイブキマイカグラ、3歳限定レースを連勝中のシンホリスキーなどが参戦し、豪華な顔ぶれとなりました(例年三冠レースは実績馬が集います)。
ここでトウカイテイオーは、イブキマイカグラとともに単枠指定と言うものを受けます。単枠指定とは、8つあるレースの枠を1頭で1つ使うことです。通常レースでは1つの枠に1頭〜3頭の馬が入ります。当時の馬券は単勝(1着馬を当てる)、複勝(買った馬が1〜3着に入ればあたり)、枠連(1着―2着の馬の枠番号を当てる)しかなかったので、比較的人気がなかった馬が勝っても、同じ枠に人気馬がいると枠連の払い戻しが下がってしまうことがあるので、それを防ぐための措置です。(現在は馬連が導入され、馬番号での投票が主流になったため単枠指定はありません)
レースは大外18番枠からスタート。最後の直線で1馬身差をつけ勝利し、GⅠタイトルを手にしました。しかし、人々は「皐月賞だけでは終わらない。親子三冠は間違い無し」とこの時点ですでに確信しました。
続いては、すべてのホースマンの夢、日本ダービー(東京優駿)に出走。再び単枠指定を受け大外20番枠(ちなみに現在最大でも出走頭数は18頭。これより前は24頭なんてのもあったらしいです)に入りました。ダービーが行われる東京2400mは、外枠の馬は不利と言われます。
↑20番枠はこの画像の一番左。
レースはらくらく3馬身の快勝。「これはまさか親子無敗三冠達成か…?」と関係者はわきました。
しかし、トウカイテイオーをここで悲劇が襲います。
骨折が判明したのです。
ダービー3日後にそれは発表されました。これにより菊花賞は断念。ちなみにその菊花賞は、ダービー2着とトウカイテイオーの後塵を拝したレオダーバンが優勝しました。
3.復活と挫折
骨折が癒え、復帰したのは翌年(1992年)の4月の産経大阪杯(当時GⅡ、阪神・芝2000m)。ダービーが5月であったことを考えると、実に1年弱ぶりのレースでした。しかし鞍上の岡部幸雄騎手は直線持ったまま(手綱を動かさず)圧勝。まさに乗っているだけでした。
最強馬の復活を予感させる走り。骨折で競走能力を大幅に失ってしまう馬も多い中、そんなことは関係ないと言わんばかりの走りでした。
続いては、古馬最強決定戦・天皇賞(春)(GⅠ、京都・芝3200m)に出走。この競走で、トウカイテイオーの前に立ちふさがったのは、春の天皇賞のディフェンディングチャンピオン・メジロマックイーン(ウマ娘でもよく出てきましたね)。当時古馬界最強を誇り、特に長距離では右に出る馬はいませんでした。最強馬vs最強馬。この対決が注目を浴び、2頭のオッズは他馬を大きく離しました(テイオー1.5倍、マックイーン2.2倍。3番人気のイブキマイカグラは18.2倍)。
レースはメジロマックイーンの圧勝、そして2連覇に終わりました。一方のトウカイテイオーはレース開始直後に骨折し、競走生活初敗北となる5着に沈みました。
その後休養をはさみ9月にトレセンでの調教を再開。10月の天皇賞(秋)(GⅠ、東京・芝2000m)で復帰しました。しかし調整の失敗と、特殊な展開(超ハイペース)が災いし7着に敗れました。
4.国際GⅠ化を飾る
陣営が次に選択したのは、世界から強豪馬を募る国際レース・ジャパンカップ(GⅠ、東京・芝2400m)。ダービーを勝ったときと同じ舞台です。
この年から、ジャパンカップは国際的な「GⅠ」の格付けを得ました。
それまで日本の多くのレースは国際的にGⅠと認められているレースではありませんでした。つまり従来の日本のグレード制は国内で決められただけのグレードだったわけです。
しかしジャパンカップは1992年から国際的にGⅠと認められました(これについてはまた機会があれば書きたいです)。
この年は、競馬の本場・イギリスのダービーを制したクエストフォーヘイム・ドクターデヴィアスを始め、2冠牝馬・ユーザーフレンドリー(英)、オーストラリア最高格G1・メルボルンカップ勝ちなどの豪州代表・レッツイロープ、重賞で実績をもつディアドクター(仏)など強豪外国馬が参戦し、ハイレベルな戦いが期待されました。
トウカイテイオーは道中4・5番手を進むと、最後はナチュラリズム(豪ダービー馬)をクビ差抑え優勝。久々のGⅠ制覇となりました。
5.明暗有馬記念
ジャパンカップを制覇したトウカイテイオーは、年末のグランプリ・有馬記念に出走することになりました。有馬記念は、創設(1956年)当初は類を見ない、ファン投票で出走馬を選出するレースです。父シンボリルドルフが2連覇したこの舞台で、トウカイテイオーは17万票近くを集め投票数1位で出走。しかしレースは終始後方を走り、生涯最低かつ唯一の2桁着順となる11着に沈みました。
1993年に入り、筋肉を痛めたことが発覚し休養。宝塚記念で復帰の予定でしたが3度めの骨折により回避。結局復帰は年末の有馬記念までずれ込みました。
実に約1年ぶりのレース。さらに菊花賞馬で一度も3着以下になったことのない3歳馬・ビワハヤヒデ、当年ダービー馬・ウイニングチケット、さらに他のGⅠ勝利勢も加わり、混戦状態となりました。そのせいか生涯最低の4番人気でレースを迎えることになりました。
レースは、後方待機策をとりました。最後の直線でビワハヤヒデが抜け出したところに襲いかかり、実に中363日でのGⅠ勝利。これはJRA記録としていまだ破られていません。
翌年(1994年)は筋肉痛を発症し休養。さらに4度目の骨折を発症し、トウカイテイオーの競走人生は幕を閉じました。
6.あとがき
通算成績は12戦9勝。その後GⅠ馬を3頭輩出し、種牡馬としてもまずまずの成績を挙げました。実はシンボリルドルフから受け継がれたトウカイテイオーの血は今では珍しいバイアリーターク系という系統で、貴重なものでした(これもあとでお話できればと思います)。ただ後継馬は、ヤマニンシュクル(2歳牝馬チャンピオン)が繁殖牝馬入りしているものの、トウカイテイオー系は非常に細々とした系統となっています。
トウカイテイオー自身も2013年に逝去し、繁殖業界ではトウカイテイオーの文字を見ることは少なくなっています。しかし、劇的な復活を遂げた有馬記念は、いつまでも競馬ファンの心に刻まれ続けること間違いありません。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。